レオナルド・ダ・ヴィンチ 絵画『最後の晩餐』の謎を解き明かし、今までの常識を覆す新刊発売のご報告。 - 宇宙人とUFOの謎、超常現象の謎、国家の陰謀を暴き、真相を解明する

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レオナルド・ダ・ヴィンチ 絵画『最後の晩餐』の謎を解き明かし、今までの常識を覆す新刊発売のご報告。

今回は管理人から新刊発売のお知らせです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『最後の晩餐』に秘められた謎について
本ブログでは何回かにわたり独自の視点で取り上げ記事にしていました。

そして過去に電子書籍にて
「レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」の謎とイエス復活の真相を解明する!」
と題して販売していましたが、
この度、紙媒体の本として内容をさらに加筆や推敲と編集を行い、
またカラー図版付きで詳細に解説するとともに読みやすい形に出来上がり、
無事、出版する運びとなりました。

Amazonにて

プロモーションビデオ(その1)


プロモーションビデオ(その2)


この絵画の謎の有無については、小説ダ・ヴィンチ・コードで注目され、
聖書学者やキリスト教聖職者、他専門家らがそれらに反論し、
事実無根として退けてきた経緯があります。

本書はそれらの反論に待ったをかけ、
聖書の記述やレオナルドが残した手記や資料を根拠に論証、
今まで誰も解き明かせなかった真相を世に明るみにするものとなります。

正直な話、

これらの内容はヴァチカンの存在を揺るがすほどの
衝撃的な内容となるはずです。

その結果、どのような事態が引き起こされるのでしょうか・・?

(小説ダ・ヴィンチ・コードに対する反論への、さらに違う視点からの反論を
彼らがどのように受け止めるのか、ダンマリを決め込むのか、
何がしかの反論をするのか、今後注視しておくとしましょう。)

本書はレオナルド・ダ・ヴィンチがたどり着いた
新約聖書のイエス像を浮き彫りにし、
今までの宗教的価値観の変容のきっかけを与えるだけにとどまらず、
語られてきた歴史そのものを塗り替える発見を目にすることとなり、
きっと多くの方々に、レオナルドの才能を改めて再評価する機会を
与えてくれる事でしょう。

最後までお読みいただければ、
これまでの常識を覆していく独自の聖書分析で解き明かされる真相は、
クリスチャンであるか否かを問わず、知的好奇心を満たす内容であると、
必ずやご満足いただけるものと思っております。



以下Youtube内容紹介より。


レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』には、ある重大な事実が描かれていた。

独自の聖書分析で真相に迫る!

今から500年も前に彼が絵画で訴えていたものとは?
従来の解釈を覆す発見により、様々な謎が氷解する。

●最後の晩餐の場面であるというのはカモフラージュ!
●ダ・ヴィンチはどのような聖書解釈をしていたのか?
●大ヤコブの驚きをどう捉えるかが、謎を解く突破口。
●イエス正面の空っぽの大皿の意味とは?
●裏切り者のユダは描かれていない!
●ペトロが右手に持つ短剣はユダに向けられたものではない。
●お金の管理をしていた弟子はユダ以外にも存在していた。
●弟子たちの三組の兄弟は隣り合わせで描かれている。
●弟子たちの視線や身振り手振りにはまったく別の意味があった。
●十三個のコップや膨らんだパンと魚料理が意味するものは?
●この絵画にはイエスが用いた聖杯は元々存在しなかった。
●この絵画の従来の説明は間違いだと言える一貫した理由とは?
●イエスの愛する弟子は実は二人いた!?
●磔刑の現場にいたイエスの愛する弟子は女性だった!
●イエスとマグダラのマリアの関係が明らかになる!
●イエスが説いた復活の本当の意味とは?

2020-08-19 | Comment(4) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 昨年初め、コメント投稿しましたMASA-DAです。
この度、キンドルより読みやすい紙版の方でも読ませていただき、改めて思うことがありましたので、、再度のコメント差し上げる次第です。少々長くなりますが、最後までお付き合いいただければ幸いす。

 当初、ヨハネがマグダラのマリアで、フィリポがヨハネであるとの説に思わず膝を打ちましたが、復活後の図であるとの説には疑問が生じていたところでした。日頃、レオナルド・ダ・ヴィンチ関連の著作に親しんでいる者としては、果たして、ダ・ヴィンチのような人がこのような大作に(隠された意味であれ)イエスの復活をテーマにして描くだろうかという疑問が湧いてきたのです。

 『最後の晩餐』の10年ほど前に、『岩窟の聖母』を描くにあたり、
ダ・ヴィンチが参考にしたのは聖書外典の「ヤコブの原福音書」でした。この絵を巡っては、依頼主との間で、その後20年にも及ぶさいばんで争うことになった経緯があり、その画家生命も想像以上に危うかったのではとないかと考えらえます。
★ダ・ヴィンチは、もちろんのこと四連福音書も深く読み込んで熟知していたはずです。だからこそ、外典の方を下敷きにしたのではないかと私には思われるのです。

★『最後の晩餐』の壁画を依頼されて、最初の下書きの素描には、ヨハネやユダの姿など通常の様式で描いたものの、その後の大きな変更に至った動機の背後には、『岩窟の聖母』制作の時と同じような思考の流れが湧き出てきたのではと、そんな風に感じられるのです。
 そしてその流れは『岩窟の聖母』から『最後の晩餐』、遺作となったあの天を指さす独特のポーズの『洗礼者ヨハネ』まで続いているのは明らかです。

 ともかく、まずは大ヤコブの驚く姿に関することで、今回改めて、
より鮮明な弟子たちの模写も含めて、じっくり絵を観察したところ、
確かに大皿は空っぽですが、銘々皿というかイエスの手前の小皿にはちゃんと魚の切り身がのっているように見えるのですが・・・・
★大皿を空っぽに描いたのは、両端の魚が山盛り?の大皿との対称になるように、またはイエスの両手の動きをより際立たさせるための、いわば意味のある余白にしているのではないかとも考えるのです。

 魚が描かれていることで、過ぎ越しの食事ではないということに整合性はありますが、私が思うに、ダ・ヴィンチはテーブルの食べ物に関しては、あまり厳密には考えてはいなかった、というか頓着していなかったと思われます。
 というのも、修道院長からミラノ公に宛てた苦情の手紙が残っていたりするからです。その内容というのは、「ダ・ヴィンチはちっとも筆を取らず、絵に食卓にぴったりの料理を作ると言って、昼夜問わず修道院の厨房を我が物顔で使い続けているが、どこまでやっても満足がいかないようで、出来た料理は全部弟子たちに食べさせる、お蔭で修道院の酒蔵はほとんど空っぽになってしまって、修道士たちはお腹をすかせてみじめな思いをしている。どうか、早く絵を描けと急かしてください」といった内容なのです。
 きっと、ダヴィンチはテーブルの食べ物を描くときは楽しみながら筆を運んでいたのではないでしょうか。

★ テーブルの魚はウナギと判明しているようですが、ダ・ヴィンチの手稿にも、ウナギ四匹の値段が書いてある買い物メモなどあるので、実際にウナギを食べていたことが分かります。
 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の料理は、ルネッサンスの食文化との融合と解釈できる、絵画のひとつの手法といえるかと思います。
 もし厳密に、復活後の魚であるとするなら、ウナギを描くことはなかったとも言えます。(ユダヤ人は)鱗のない魚を食べてはいけない掟があるのではなかったでしょうか・・・・

 大ヤコブに話を戻すと、この驚きのポーズには別の深い意味があると考えられます。そもそもダ・ヴィンチほどの画家が、空っぽの皿を見て驚く様子を、もろそのままの形態で描くでしょうか・・・・

別の疑問として、今回の紙版の67頁にある「キリスト教批判は画家生命を絶たれる」のところが正直私にはよく理解できません。
時代背景として、教会批判は画家生命を絶たれるということの意味はもちろん分かります。(実際、ダ・ヴィンチは『岩窟の聖母』で危ういところでした)
 『最後の晩餐』をカモフラージュにして「復活後のイエス」を壁画にしたことが、、なぜ教会批判になるのかよく分かりません。
 復活そのものは、いわば教会の核になることでしょうから、何の問題もないように思うのですが・・・・
 ダ・ヴィンチ自身も、肉体と霊魂に関する手記を残してもいます。
霊魂の存在は信じていたようですから、イエスの復活の意味合いも霊的復活と捉えていたのだと思います。
 もっとも手稿には、教会や修道士に対する疑念の表現が散見されるので、イエスの復活自体を、本当のところどういう風に捉えていたか
はっきりとは分からない感じがします。手稿には神(dio)という言葉はなく、あるのは創造者(creatore)という言葉だそうです。

★ともかく思うのは、その霊魂の永続性を、別人の体に乗り移ることによって示すといったような表現をダ・ヴィンチは考えもしなかったろうと。(余談ですが、乗り移られたその別人の魂自体はいったいどうなるというのでしょうか・・・・)

 教会批判に話を戻すと、ペトロに短剣を持たせた(復活したイエスを殺そうとしている)真相が分かったら画家生命画家生命は絶たれるだろうとの文脈について、バチカンすなわちペトロの教会だから、短剣の真相はそのペトロを貶めることになるので、結果的に教会を批判しているということになるのでしょうか、そしてそれはバチカンを揺るがすほどのことなのでしょうか・・・・
門外漢の私にはうまく把握できないことです。

 思うに、教会に対する批判で脅威になる最大のものは、やはり異端(あくまでもペトロの教会側から見ての)異端思想ではないのでしょうか。そしてこの場合、ダ・ヴィンチが『最後の晩餐』壁画にマグダラのマリアを描いたのがそのこと自体に他ならないと思うのです。
★イエスの教えの真の継承者はイエスの愛する弟子、マグダラのマリアその人であると!
 その意味では、ダン・ブラウンは正しかったし、私もマグダラのマリアが描かれているということに疑いはありません。
★マグダラのマリアを敵視し、嫉妬していたペトロの持つ短剣が、実際はマグダラのマリアに向けられている!と分かる人には分かるように描き込んだダ・ヴィンチのその手法、仕掛けには驚かされます。

 では、ヨハネは?
実は、この夏にルネッサンス絵画の捉え方を少し学ぶ機会があり、さらには最近あらたな知見を得た結果、ヨハネにマグダラのマリアが
★「兼任」されていることを知った次第です。
また、「異時同図法」という画法〜同一人物の異なる時間を複数描き込む技法〜により、この『最後の晩餐』にもイエスの複数の時間が描かれていることが分かりました。
★「兼任」ということで言えば、これは私の考えですが、フィリポは聖母マリアを「兼任」していると見ています。なによりフィリポは女性的で(髭の無いのはヨハネとフィリポ)、服の配色や両手のポーズなどヨハネに対称、対応していると思います。ヨハネ=マグダラのマリア、フィリポ=聖母マリアの構図です。(あくまでも私の考えです)

★ユダはユダです。ユダの場合は複雑で、ペトロに相前後して交差密着している構図に深い意味があるようです。実に深く聖書を読み込んでいたダ・ヴィンチは、マタイ16:23により、ユダより先にサタンが入ったのはペトロの方だと鋭く見抜き(イエスが見抜いたように!)
それを誰も思いつかないような手法で表現したのです。サタンを蛇に見立て、なんとペトロの肩に置いた小ヤコブの手に蛇を「兼任」させたのです! ぺトロの教会が震撼しないはずはありません。
★私の脳裏には、四連福音書が一様にユダを悪者としているその深い理由がぼんやりと浮かび上がってきました。言葉は悪いですが、やはり聖書は勝ち組が作り上げたものなのでしょうか・・・

★最も感動したのは、トマスが洗礼者ヨハネを「兼任」しているとの解釈、のちの遺作とる『洗礼者ヨハネ』に思いを馳せ、深く腑に落ちた次第です。
★尚、このマグダラのマリア・イエス・洗礼者ヨハネの構図はボッティチェリの『聖三位一体』(十字架のイエスを中心に、左にマグダラのマリア、右に洗礼者ヨハネの構図)からヒントを得ていたようです。 ボッティチェリも凄い画家だと思います。

★ダ・ヴィンチに限らず、当時の偉大な画家たちは、様々な技法を駆使して、本当に描きたかったこと、真実を、暗号を散りばめるように絵に埋め込み描き残そうしたのです。それこそ命がけの仕事として。
 表面には一般的な絵の解釈を、見る力のある者にはその裏面のコトバが分かるように、さらには秘儀に通じた者には一瞬にしてその秘密の真実が悟れるように・・・・

★ダ・ヴィンチは、『最後の晩餐』の模写は広く推奨したようですが、自分の壁画の真実(イエスの真の継承者は誰か)が後世に残ることについては、神に委ねたのではないでしょうか・・・・
その行く末を承知の上、敢えて壁画には向かない技法を選んで・・・

ほんとうに、ほんとうに奇跡の絵です。


☆☆最後になりましたが、『最後の晩餐』について考えるきっかけを与えてくださったことに感謝いたします。そして、思いがけず紙版でも拝読でき、あらためて私なりにをより深く思考を巡らせることが出来ました。 ありがとうございました。

                 MASA-DA
               (ペトロの教会の多い長崎市在住)
            

参考までに、私が参照したサイトを載せておきます。
https://ameblo.jp/sono7412min/entry-12522322840.html




Posted by 園田雅子 at 2020.11.29 22:21
 先日のコメントで、四連福音書は正典福音書と書くべきところでしたので、そこのところ訂正いたします。

 せっかくですから追加のコメント差し上げます。
今回の紙版で、バルトロマイの変更にはちょっと驚きましたが、なにも兄弟だからと一緒と限らないのではないでしょうか。
 この場合、両端の3人ずつを、それぞれのグループと見て、そのグループ自体が相似形と考えてた方が自然だと思います。

 それぞれがよく似ていて、手の動きなどの対称性もはっきりとしていて、この6人は、いわば外野席で勤めを果たしているといったところではないでしょうか(イエスの言葉に驚いたり、訝しんだりと)
バルトロマイとマタイ、小ヤコブとユダ・タダイ、アンデレとシモンがそれぞれに対称?ではないでしょうか。

 ヨハネ(兼マグダラのマリア)はイエスの左、大ヤコブが右と描かれているのは、マルコ10:36-37を踏まえてのこととも考えられます。したがって、ゼベダイの兄弟が分かれて描かれていることにはなんの
問題もないのではと考えます。

 大ヤコブのポーズに関して、参照サイトには、大ヤコブとフィリポの二人の対称的なポーズは、マタイの16:24のイエスの言葉のにある
「・・・自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい・・・」のととろに対応するもので、大ヤコブが十字架を、フィリポが従うというポーズのクローズアップで(もちろん大ヤコブのポーズが十字架を表している)、その前のマタイ16:23が、イエスがペトロに言う、「サタン、引き下がれ。・・・」ですから、この二人のポーズを通して、マタイ16:24が呼応しているということになるということです。

 最後に蛇足ですが、トリノの聖骸布は、過去の知見によれば、テンプル騎士団のグランド・マスターであったジャック・ド・モレーと認識しています(クリストファー・ナイト『封印のイエス』参照)
 聖骸布の容貌は、モレーにそっくりですし、亜麻布の年代測定も1260年以前のものではないということで、時代も合致しています。
 なぜその説が広まらないかというと、バチカンがその起源を知っていて聖遺物として認めていないからとのことですが、モレーの虐殺に加担した側である方としては当然触れられたくないことでしょう。
 死人(敗者)に口なし勝者の歴史、といったところです。

ではこのへんで。
長々、失礼いたしました。      MASA-DA
Posted by MASA=DA at 2020.12.04 16:43
>園田雅子さん

中篠與知哉です。

コメント大変興味深く拝見いたしました。
ありがとうございます。

返信が遅れましたことご容赦ください。

Kindle版と書籍、両書をご購入頂いたとのことで、
大変嬉しく思っております。

この場を借りて心からお礼を申し上げます。

もともと本書には私が考えるイエス復活の真相についてまで
書き記したかったのですが、編集者の勧めもあり、
詳細は別途続編となる電子書籍にてまとめることになりました。

なお、その続編はすでに販売中ではありますが、
内容は聖書の記述から導かれるひとつの仮説を
展開していく形となっております。

また本作の英訳版となる電子書籍を先日リリースしたばかりで、
今現在は続編の英訳作業に専念しており、
それが終わり次第あと少なくとも2作書籍を出版する予定です。

その2作については、今まで誰も気づいていない聖書の真実に
肉薄していると思われるため、まだまだ序の口である今回の
書籍に比べより一層気が引き締まる思いであります。


最後に、園田様におかれましては、
コロナ禍の混乱が一日でも早く終息しますよう祈りつつ、
くれぐれもご自愛専一にてお過ごしくださいませ。
Posted by ぷりお at 2021.09.20 22:19
園田雅子 さん

遅ればせながら、頂いた疑問への返答を
していなかったので追記しておきます。


>銘々皿というかイエスの手前の小皿にはちゃんと魚の切り身がのって
>いるように見えるのですが


ご指摘の通りイエスの前にある取り皿には魚料理が描かれてはいますが、
イエスの呼びかけに応じ弟子に差し出された一切れの焼き魚を食べたとあるため、
その取り皿の魚料理はイエスが現れる前にもともとそこに置かれていたものだとも判断できるでしょう。


>もし厳密に、復活後の魚であるとするなら、ウナギを描くことはなか
>ったとも言えます。(ユダヤ人は)鱗のない魚を食べてはいけない掟
>があるのではなかったでしょうか


当時の教会関係者らがそういった間違いを修正するよう
厳密さを要求することもなかったことなどから考えるに、
仰る通り当時の食文化を反映させているという見方(他の研究者方の意見も同じ)
で問題ないように思います。


>そもそもダ・ヴィンチほどの画家が、空っぽの皿を見て驚く様子を、
>もろそのままの形態で描くでしょうか


そこはもちろん考えた部分ではありますが、
最後の晩餐という場面にカモフラージュしたという観点があればこそ、
そのように描けたということになります。

ずばりダイレクトに一つの場面を描いていながら、
そう思わせないような構図になっているということですね。


>バチカンすなわちペトロの教会だから、短剣の真相はそのペトロを貶
>めることになるので、結果的に教会を批判しているということになる
>のでしょうか、そしてそれはバチカンを揺るがすほどのことなのでしょうか


もしこの絵が当時、最後の晩餐ではないのではないかと不審がられたなら、
単純な教会批判というだけでは済まされず、神への侮辱、冒涜、神の子イエスを
ペトロが殺そうとする描写自体がタブーであり大問題とされたのではないかと思います。

果たして不信心であると描き直しを命じられて一件落着できたかどうか疑問です・・。
その描写をした結果、彼が裁判で有罪判決になったとしてもおかしくないほどの
事件となった可能性は高いのではと思います。

またこのペトロの描写もダヴィンチの教会に対する姿勢が
もっともよく表れていると解釈できますし、
過激ではあるもののユダが裏切り者なのだから
このような描写は別に問題ないと判断された結果、
つまりカモフラージュは成功し無事消されずに残ったのでしょう。

あと、教会に対する批判で脅威になる最大のものは
異端思想であるというのは確かにそうでしょうが、
マグダラのマリアを描いたこと自体がそれに直結するとは私には思えません。

しかしながら復活したイエスを最初に目撃した人物であり、
かつイエスの愛する弟子であったと判明すれば、
この事実はヴァチカンを揺るがすほどのものになるに違いないでしょう。
その具体的な理由は本書にて書き記してある通りです。


・・ちなみにトリノの聖骸布に映る人物に関しては、
テンプル騎士団のグランド・マスターこと
ジャック・ド・モレーであるという説は
間違いであるとすでに指摘されているようですね。


以上で失礼いたします。

Posted by ぷりお at 2021.09.27 02:41
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